9月 7日月曜日 ハバナ市街観光2
(1)ハバナの子供たち
(2)ホセ・マルティの家
(3)鉄道駅や波止場
(4)再び革命博物館へ
(5)キューバ革命とは何か?
(6)チェ・ゲバラとカミーロ・シエンフエゴス
(7)捕らわれた5人
(8)グランマ号
(9)ハバナ・バスツアー
(10)革命広場とバス・ターミナル
(11)葉巻とアイスクリーム
(12)新市街散策
(13)戦慄!ババア娼婦の襲撃!
(14)キャバレー
ハバナの子供たち
朝7時に起きたので、シャワーを浴びてから、恒例の朝の散歩に出ることにした。
今回は、旧市街の南側を散策に向かう。
空を見上げれば、今日も雲ひとつない快晴だし、ますます暑くなりそうだ。たまには、スコールでも来れば良いのに。
ホテルを出て、中央公園から南下してカピトリオの前を抜けると、美麗な市民公園が広がっていた。美しい芝生のあちこちにデザインの良いベンチが並び、その合間にはいろいろな銅像や胸像が建つ。中でも度肝を抜かれたのは、リンカーン大統領の胸像の存在である。この人はアメリカの大統領なんだから、キューバの敵じゃないのか?
おそらく、カストロ政権の考えはこうである。「憎むべきアメリカ大統領は、キューバに喧嘩を売ったアイゼンハワー以降の面々である。それ以前の大統領に対しては、中立公平に接しようじゃないか。過去の偉大なアメリカ大統領は、その偉大さをきちんと顕彰しよう」。カストロ政権は、実はリベラルで心が広いのだろう。
この公園の西側には、中華街が広がる。でも、どうせ早朝だから店はみんな閉まっているだろうと考えて、入口の門の様子だけ視察して引き返した。それにしても、世界中のどこの都市にでも中華街を持っているんだね。中国人、恐るべし!
さて、早朝の沿道には、通学途中の子供が多い。幼い子は母親に手をひかれて嬉しそうに、少し大きくなった子は友達と連れ立って楽しそうに、仲良く集団登校だ。
俺は、訪れた国の幸福度を、「子供の表情」をメルクマールにして測定することにしている。この方法論からすると、キューバはかなり幸福度の高い国だと言えそうだ。だって、子供たちの顔が、みんな輝いているんだもん。
ロリ萌えー♪
ガイドのMさんは昨日、「キューバは、世界で一番、子供を大切にする国です」と言い切っていたけれど、なるほど、子供たちの様子を見ていると、確かにそうかもしれない。
キューバでは、学校に通う子供たちは、みんな制服を着ている。小学生までの幼い子供は、ベージュ色のズボンないしスカートに白いワイシャツ姿をしている。中学生以上の子供は、空色のズボンないしスカートに、白いワイシャツと青ネクタイだ。
感心するのは、全ての制服が子供たちの顔立ちや肌の色にフィットしている点である。キューバには、白人、黒人、混血の3種類の人種がいる。それぞれ顔立ちも肌の色も違うというのに、その全てに完璧に適応するこれらの制服は実にセンスが良いと思う。革命政権は、「すべての人種が完全に平等である」という理念を貫くため、必死に知恵を絞ってこのデザインを生み出したのだろう。そういうところは、本当に尊敬に値する。
そして、集団登校の子供たちは、白人も黒人もみんな対等に友達づきあいをしているように見えた。この国では、建前ではなく、どうやら本当に全人種が平等なのだ。
お隣のアメリカは、民主主義とか自由主義とか偉そうなことを言うのなら、少しはこれを見習ったらどうだろうか?
俺は昔、友人とシアトル近郊を旅行中に、アメリカ西部のインディアン部落を見たことがある。見たと言っても、インディアン居留区は高さ3メートルのフェンスに囲まれているから、中の様子を伺うことは全く出来なかった。もちろん、塀の中の住民も外に出ることが出来ない。いちおう、アメリカ政府は彼らに捨て扶持を与えているので、餓死することはないようだが、これはまともな人間に対する扱いではない。アメリカが先住民に対して今もなお実行中のこの犯罪は、ナチスドイツやソ連の強制収容所と、本質的に同じではないのか?
すなわち、アメリカ合衆国は、自由だの正義だのと言える資格を持たない国である。日本人は、こういった実態を知らずに騙されているのである。
さて、子供たちの列と一緒に、旧市街のデ・ベルジカ通りをどんどん南に下る。この大通りには通勤途上の自動車が多く、生意気にも(笑)交通渋滞が起きていた。実は、なかなかの車社会じゃないか、キューバ。ただし、ひと世代前の古い車が多いせいか、排気ガスが酷い。おかげで、周囲の空気もガソリン臭いぞ。
キューバは、環境保護立国ということで世界に名高い。アメリカに対抗するために、わざとそういうのを政治的にアピールしているのだろうが、虚飾の匂いがする。地球環境のことを大仰に言い立てる前に、まずは足元の排気ガスを何とかするべきではないだろうか?まあ、経済封鎖のせいでエコカーを購入出来ない上、交通機関の電化も出来ないのだから、それは無いものねだりであろうか?
さて、大通りをどんどん歩いているうちに、子供たちは沿道の学校に入って行ったので周囲は次第に寂しくなった。
ロリ萌え終了(号泣)。
ホセ・マルティの家
寂寥感にめげずに大通りを南下すると、やがて国鉄の中央駅に着いた。
この近くに、ホセ・マルティの生家があるはずだ。「地球の歩き方」を見ながら周囲をウロウロ探して、ようやく道路の反対側に小さなペンキ塗りの木造住宅を発見した。キューバ史上最大の英雄は、このような貧しい家で生を受けたのだ。
日本ではほとんど知られていないが、ホセ・マルティは、カリブ海世界が生んだ最高の英雄である。
1853年にハバナで生まれた彼は、思想家としてのみならず詩人、小説家、劇作家、文芸評論家、ジャーナリスト、そして教育者として世界的に活躍した万能の天才である。しかも、フィデル・カストロのキューバ革命思想の土台を築いたのが、このホセ・マルティだ。だから、キューバ人は皆、マルティを尊敬している。
この早熟な天才は、弱冠16歳のとき、革命を企てたために宗主国スペインに睨まれて国外追放となった。そのため、彼の活躍の舞台は主としてアメリカのニューヨークだった。
マルティの思想の基本にあるのは、「人間は本来、自由な存在である」という観念である。「自由の実現こそが、人間の目的であり義務である。だから、これを阻むものは全て打倒しなければならない。白人列強による植民地支配や人種差別は、まさに自由を阻むものである。だからこそ、否定されなければならない」。
そして「知ることは自由になること」。マルティは、教育を非常に大切に考えていた。
「自由」を重んじるという点では、マルティの思想はアメリカ合衆国の国家理念に近いように見える。しかし、実際は大きく違った。
マルティの言う「自由」は、弱者を救済する優しい内容だった。国家や社会の最大の存在意義は、「貧しい人や弱い人を救済し、彼らに教育や医療を無償で提供することだ」と考えていたのである。だからこそ彼は、アメリカ合衆国の在り方、すなわち自由市場と自由競争を無制限に賛美し、貧富格差や人種差別を助長し奨励さえするような行き方を憎んでいたのである。
さて、ホセ・マルティは、ニューヨークで様々な文化活動を行いながら、なおもスペインに対するキューバ独立を画策し続けた。その過程で、多くの同志たちがアメリカ合衆国の力を借りるように提案したのだが、マルティは首を横に振るのが常だった。
「私は怪物の中に住んでいるので、その内臓を良く知っている」。
マルティは、合衆国のスローガンである「自由と平等」、「進歩と民主主義」が、外向けのプロパガンダに過ぎず、この国家がダブルスタンダードの二枚舌国家であり、その本質が邪悪な帝国主義で、支配と搾取を希求する存在であることを見抜いたのだった。
「この国は、優れた民主主義国家とは言えない。私の理想とは絶対に相容れない」
結局、マルティは合衆国の力をまったく借りることなく、12年の歳月をかけて独立解放軍を組織した。
1895年4月1日、ホセ・マルティは軍勢を率いてジャマイカを出航。キューバ東部のオリエンテ州に上陸して、マキシモ・ゴメス将軍らとともに第二次独立戦争の火蓋を切った。マルティは、周囲の反対を押し切り、常に白馬に乗って最前線で戦うのが常だった。それを知ったスペイン軍の待ち伏せ攻撃を受けたのが5月19日。そして、その尊い命を馬上にて壮絶に散らしたのだった。
こうして、ホセ・マルティは神話となった。キューバ、いや中南米に住む全ての人が彼を愛し尊敬した。
以上のことから分かると思うが、カストロやチェ・ゲバラの思想や生き様は、実はホセ・マルティの受け売りなのである。カストロのキューバが社会主義になったのも、アメリカと敵対関係に入ったのも、ソ連・東欧世界の動向やマルクス=レーニン主義とは全く関係が無い。これは、ホセ・マルティ思想の産物なのだ。
だから、キューバが冷戦時代にソ連や東欧と手を組んだのは、アメリカと敵対したことに伴う当然の反作用に過ぎない。それだからこそ、ソ連・東欧の社会主義圏(マルクス=レーニン主義)が根こそぎ崩壊した後になっても、キューバの社会主義は、こうして堅固に生き残っているというわけだ。
「社会主義思想」は、一枚岩ではないのである。
ともあれ、英雄ホセ・マルティの生家を、今こうして実見できて大満足なのであった。
鉄道駅や波戸場
さて、横断歩道を渡って国鉄中央駅を見に行くことにした。
ヨーロッパ風の美麗な石造りの建築は、その内部構造もヨーロッパの古い駅舎に似ているので、プラハのマサリク駅などを懐かしく思い出してしまった。
ただし、肝心の電車の本数は著しく少なく、しかも時刻表通りに運転されないらしい。この国の一般的な電力不足に加えて、昔の車両を修理しながら騙し騙し用いているため、故障が多いからだ。これは、自動車の事情と同じことである。
逆に、この国では、今では他では用いられなくなった古い型の車両を実見できるため、世界中の鉄ちゃん(鉄道マニア)にとって聖地扱いなのだとか。まあ、分かる気がする。
俺は、こちらに来る前に鉄道を用いた小旅行を企画していたのだが、昨日、Mさんに思い留まるように説得されて止めにしたのだった。確かに、旅行日程が限られているというのに、郊外に行ったきり帰って来られないようでは困るからね。
それでも、駅舎には雑貨屋や軽食堂もあり、待合室に何人もの老人が座っていたから、そんなキューバの鉄道にも需要はあるのだろう。
一通りの構内散策を終えたので、次に波戸場を見に行くことにした。国鉄中央駅のすぐ南側に、ハバナ湾の本体が大きく広がっているのだ。しかし、波戸場には一隻の船もなく、倉庫はサビだらけで崩壊寸前の有り様だった。
キューバは、冷戦時代はソ連・東欧と活発に貿易を行っていた。おそらくその時代は、これらの国々の旗をつけた船舶が、ギッシリと港湾施設を埋め尽くしていたのだろう。ソ連・東欧の崩壊後(1989年〜)、隣国アメリカからの執拗な経済封鎖などがあり、この有り様に早変わりというわけだ。それでも、アメリカに絶対に屈服せず突っ張り抜いているのだから、ある意味で大したものである。
日本も、少しはこの根性を見習ったらどうだろうか?
などと考えながら、蒼く広大なハバナ湾を右手に眺めつつ、サン・ペドロ通りを東に向かって歩いた。昨日とは逆に、ハバナ旧市街の南側を、反時計回りに散策しようと考えたのだ。
美麗なパウラ教会や様々な政府の役所、さらには壁にペンキで描かれたチェ・ゲバラの絵などを楽しく眺めつつ、サン・フランシスコ修道院の前までやって来た。
まだ早朝なので、「パリの貴公子」の銅像はポツンと一人、寂しげに立っている。俺は思う存分、その鬚を撫でまくったのであった。それにしても、乞食の銅像に触って期待できる「良いこと」とは、いったい何であろうか?少なくとも、金持ちにはなれそうもないけど(笑)、キューバは「みんな平等に貧乏」を目指す国だから(?)、それで良いのかもね。
腹が減ったので、オビスポ通りを抜けてホテルに帰った。そして、昨日と同じように、ホテル最上階で美味いバイキングを腹に詰めたのだった。
さて、部屋に帰って居座っていても、時間がもったいないだけだ。そこで、(クロークでの盗難が怖いので)カバンを持たずに革命博物館に向かうことにした。
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