9月7日月曜日 ハバナ市街観光2
9月 7日月曜日 ハバナ市街観光2
(1)ハバナの子供たち
(2)ホセ・マルティの家
(3)鉄道駅や波止場
(4)再び革命博物館へ
(5)キューバ革命とは何か?
(6)チェ・ゲバラとカミーロ・シエンフエゴス
(7)捕らわれた5人
(8)グランマ号
(9)ハバナ・バスツアー
(10)革命広場とバス・ターミナル
(11)葉巻とアイスクリーム
(12)新市街散策
(13)戦慄!ババア娼婦の襲撃!
(14)キャバレー
ハバナの子供たち
朝7時に起きたので、シャワーを浴びてから、恒例の朝の散歩に出ることにした。
今回は、旧市街の南側を散策に向かう。
空を見上げれば、今日も雲ひとつない快晴だし、ますます暑くなりそうだ。たまには、スコールでも来れば良いのに。
ホテルを出て、中央公園から南下してカピトリオの前を抜けると、美麗な市民公園が広がっていた。美しい芝生のあちこちにデザインの良いベンチが並び、その合間にはいろいろな銅像や胸像が建つ。中でも度肝を抜かれたのは、リンカーン大統領の胸像の存在である。この人はアメリカの大統領なんだから、キューバの敵じゃないのか?
おそらく、カストロ政権の考えはこうである。「憎むべきアメリカ大統領は、キューバに喧嘩を売ったアイゼンハワー以降の面々である。それ以前の大統領に対しては、中立公平に接しようじゃないか。過去の偉大なアメリカ大統領は、その偉大さをきちんと顕彰しよう」。カストロ政権は、実はリベラルで心が広いのだろう。
この公園の西側には、中華街が広がる。でも、どうせ早朝だから店はみんな閉まっているだろうと考えて、入口の門の様子だけ視察して引き返した。それにしても、世界中のどこの都市にでも中華街を持っているんだね。中国人、恐るべし!
さて、早朝の沿道には、通学途中の子供が多い。幼い子は母親に手をひかれて嬉しそうに、少し大きくなった子は友達と連れ立って楽しそうに、仲良く集団登校だ。
俺は、訪れた国の幸福度を、「子供の表情」をメルクマールにして測定することにしている。この方法論からすると、キューバはかなり幸福度の高い国だと言えそうだ。だって、子供たちの顔が、みんな輝いているんだもん。
ロリ萌えー♪
ガイドのMさんは昨日、「キューバは、世界で一番、子供を大切にする国です」と言い切っていたけれど、なるほど、子供たちの様子を見ていると、確かにそうかもしれない。
キューバでは、学校に通う子供たちは、みんな制服を着ている。小学生までの幼い子供は、ベージュ色のズボンないしスカートに白いワイシャツ姿をしている。中学生以上の子供は、空色のズボンないしスカートに、白いワイシャツと青ネクタイだ。
感心するのは、全ての制服が子供たちの顔立ちや肌の色にフィットしている点である。キューバには、白人、黒人、混血の3種類の人種がいる。それぞれ顔立ちも肌の色も違うというのに、その全てに完璧に適応するこれらの制服は実にセンスが良いと思う。革命政権は、「すべての人種が完全に平等である」という理念を貫くため、必死に知恵を絞ってこのデザインを生み出したのだろう。そういうところは、本当に尊敬に値する。
そして、集団登校の子供たちは、白人も黒人もみんな対等に友達づきあいをしているように見えた。この国では、建前ではなく、どうやら本当に全人種が平等なのだ。
お隣のアメリカは、民主主義とか自由主義とか偉そうなことを言うのなら、少しはこれを見習ったらどうだろうか?
俺は昔、友人とシアトル近郊を旅行中に、アメリカ西部のインディアン部落を見たことがある。見たと言っても、インディアン居留区は高さ3メートルのフェンスに囲まれているから、中の様子を伺うことは全く出来なかった。もちろん、塀の中の住民も外に出ることが出来ない。いちおう、アメリカ政府は彼らに捨て扶持を与えているので、餓死することはないようだが、これはまともな人間に対する扱いではない。アメリカが先住民に対して今もなお実行中のこの犯罪は、ナチスドイツやソ連の強制収容所と、本質的に同じではないのか?
すなわち、アメリカ合衆国は、自由だの正義だのと言える資格を持たない国である。日本人は、こういった実態を知らずに騙されているのである。
さて、子供たちの列と一緒に、旧市街のデ・ベルジカ通りをどんどん南に下る。この大通りには通勤途上の自動車が多く、生意気にも(笑)交通渋滞が起きていた。実は、なかなかの車社会じゃないか、キューバ。ただし、ひと世代前の古い車が多いせいか、排気ガスが酷い。おかげで、周囲の空気もガソリン臭いぞ。
キューバは、環境保護立国ということで世界に名高い。アメリカに対抗するために、わざとそういうのを政治的にアピールしているのだろうが、虚飾の匂いがする。地球環境のことを大仰に言い立てる前に、まずは足元の排気ガスを何とかするべきではないだろうか?まあ、経済封鎖のせいでエコカーを購入出来ない上、交通機関の電化も出来ないのだから、それは無いものねだりであろうか?
さて、大通りをどんどん歩いているうちに、子供たちは沿道の学校に入って行ったので周囲は次第に寂しくなった。
ロリ萌え終了(号泣)。
ホセ・マルティの家
寂寥感にめげずに大通りを南下すると、やがて国鉄の中央駅に着いた。
この近くに、ホセ・マルティの生家があるはずだ。「地球の歩き方」を見ながら周囲をウロウロ探して、ようやく道路の反対側に小さなペンキ塗りの木造住宅を発見した。キューバ史上最大の英雄は、このような貧しい家で生を受けたのだ。
日本ではほとんど知られていないが、ホセ・マルティは、カリブ海世界が生んだ最高の英雄である。
1853年にハバナで生まれた彼は、思想家としてのみならず詩人、小説家、劇作家、文芸評論家、ジャーナリスト、そして教育者として世界的に活躍した万能の天才である。しかも、フィデル・カストロのキューバ革命思想の土台を築いたのが、このホセ・マルティだ。だから、キューバ人は皆、マルティを尊敬している。
この早熟な天才は、弱冠16歳のとき、革命を企てたために宗主国スペインに睨まれて国外追放となった。そのため、彼の活躍の舞台は主としてアメリカのニューヨークだった。
マルティの思想の基本にあるのは、「人間は本来、自由な存在である」という観念である。「自由の実現こそが、人間の目的であり義務である。だから、これを阻むものは全て打倒しなければならない。白人列強による植民地支配や人種差別は、まさに自由を阻むものである。だからこそ、否定されなければならない」。
そして「知ることは自由になること」。マルティは、教育を非常に大切に考えていた。
「自由」を重んじるという点では、マルティの思想はアメリカ合衆国の国家理念に近いように見える。しかし、実際は大きく違った。
マルティの言う「自由」は、弱者を救済する優しい内容だった。国家や社会の最大の存在意義は、「貧しい人や弱い人を救済し、彼らに教育や医療を無償で提供することだ」と考えていたのである。だからこそ彼は、アメリカ合衆国の在り方、すなわち自由市場と自由競争を無制限に賛美し、貧富格差や人種差別を助長し奨励さえするような行き方を憎んでいたのである。
さて、ホセ・マルティは、ニューヨークで様々な文化活動を行いながら、なおもスペインに対するキューバ独立を画策し続けた。その過程で、多くの同志たちがアメリカ合衆国の力を借りるように提案したのだが、マルティは首を横に振るのが常だった。
「私は怪物の中に住んでいるので、その内臓を良く知っている」。
マルティは、合衆国のスローガンである「自由と平等」、「進歩と民主主義」が、外向けのプロパガンダに過ぎず、この国家がダブルスタンダードの二枚舌国家であり、その本質が邪悪な帝国主義で、支配と搾取を希求する存在であることを見抜いたのだった。
「この国は、優れた民主主義国家とは言えない。私の理想とは絶対に相容れない」
結局、マルティは合衆国の力をまったく借りることなく、12年の歳月をかけて独立解放軍を組織した。
1895年4月1日、ホセ・マルティは軍勢を率いてジャマイカを出航。キューバ東部のオリエンテ州に上陸して、マキシモ・ゴメス将軍らとともに第二次独立戦争の火蓋を切った。マルティは、周囲の反対を押し切り、常に白馬に乗って最前線で戦うのが常だった。それを知ったスペイン軍の待ち伏せ攻撃を受けたのが5月19日。そして、その尊い命を馬上にて壮絶に散らしたのだった。
こうして、ホセ・マルティは神話となった。キューバ、いや中南米に住む全ての人が彼を愛し尊敬した。
以上のことから分かると思うが、カストロやチェ・ゲバラの思想や生き様は、実はホセ・マルティの受け売りなのである。カストロのキューバが社会主義になったのも、アメリカと敵対関係に入ったのも、ソ連・東欧世界の動向やマルクス=レーニン主義とは全く関係が無い。これは、ホセ・マルティ思想の産物なのだ。
だから、キューバが冷戦時代にソ連や東欧と手を組んだのは、アメリカと敵対したことに伴う当然の反作用に過ぎない。それだからこそ、ソ連・東欧の社会主義圏(マルクス=レーニン主義)が根こそぎ崩壊した後になっても、キューバの社会主義は、こうして堅固に生き残っているというわけだ。
「社会主義思想」は、一枚岩ではないのである。
ともあれ、英雄ホセ・マルティの生家を、今こうして実見できて大満足なのであった。
鉄道駅や波戸場
さて、横断歩道を渡って国鉄中央駅を見に行くことにした。
ヨーロッパ風の美麗な石造りの建築は、その内部構造もヨーロッパの古い駅舎に似ているので、プラハのマサリク駅などを懐かしく思い出してしまった。
ただし、肝心の電車の本数は著しく少なく、しかも時刻表通りに運転されないらしい。この国の一般的な電力不足に加えて、昔の車両を修理しながら騙し騙し用いているため、故障が多いからだ。これは、自動車の事情と同じことである。
逆に、この国では、今では他では用いられなくなった古い型の車両を実見できるため、世界中の鉄ちゃん(鉄道マニア)にとって聖地扱いなのだとか。まあ、分かる気がする。
俺は、こちらに来る前に鉄道を用いた小旅行を企画していたのだが、昨日、Mさんに思い留まるように説得されて止めにしたのだった。確かに、旅行日程が限られているというのに、郊外に行ったきり帰って来られないようでは困るからね。
それでも、駅舎には雑貨屋や軽食堂もあり、待合室に何人もの老人が座っていたから、そんなキューバの鉄道にも需要はあるのだろう。
一通りの構内散策を終えたので、次に波戸場を見に行くことにした。国鉄中央駅のすぐ南側に、ハバナ湾の本体が大きく広がっているのだ。しかし、波戸場には一隻の船もなく、倉庫はサビだらけで崩壊寸前の有り様だった。
キューバは、冷戦時代はソ連・東欧と活発に貿易を行っていた。おそらくその時代は、これらの国々の旗をつけた船舶が、ギッシリと港湾施設を埋め尽くしていたのだろう。ソ連・東欧の崩壊後(1989年〜)、隣国アメリカからの執拗な経済封鎖などがあり、この有り様に早変わりというわけだ。それでも、アメリカに絶対に屈服せず突っ張り抜いているのだから、ある意味で大したものである。
日本も、少しはこの根性を見習ったらどうだろうか?
などと考えながら、蒼く広大なハバナ湾を右手に眺めつつ、サン・ペドロ通りを東に向かって歩いた。昨日とは逆に、ハバナ旧市街の南側を、反時計回りに散策しようと考えたのだ。
美麗なパウラ教会や様々な政府の役所、さらには壁にペンキで描かれたチェ・ゲバラの絵などを楽しく眺めつつ、サン・フランシスコ修道院の前までやって来た。
まだ早朝なので、「パリの貴公子」の銅像はポツンと一人、寂しげに立っている。俺は思う存分、その鬚を撫でまくったのであった。それにしても、乞食の銅像に触って期待できる「良いこと」とは、いったい何であろうか?少なくとも、金持ちにはなれそうもないけど(笑)、キューバは「みんな平等に貧乏」を目指す国だから(?)、それで良いのかもね。
腹が減ったので、オビスポ通りを抜けてホテルに帰った。そして、昨日と同じように、ホテル最上階で美味いバイキングを腹に詰めたのだった。
さて、部屋に帰って居座っていても、時間がもったいないだけだ。そこで、(クロークでの盗難が怖いので)カバンを持たずに革命博物館に向かうことにした。
なぜ奴隷がアメリカに来た
ホテルのエレベーターは混んでいたので、階段を使ってロビーに降りることにしたのだが、その途中で小鳥の囀りが耳に入った。録音ではなく、本物の小鳥の声だ。中庭に面した内窓から見下ろすと、このホテルの2階の中庭が大きなテラスになっている事が分かった。このテラスの中央床部分には大きなガラス窓が嵌っているのだが、なるほど、これがそのまま1階ロビーの自然採光式の天井になっているのだ。そして、この2階テラスには小鳥が放し飼いになっていて、自由気ままに囀っていた。そこで、思わずテラスに遊びに行き、観葉植物などを鑑賞して大いに楽しんだ。
東京では、JRの駅構内などでやたらと小鳥の声を耳にする。これはもちろん録音の声で、自殺防止のために流しているのである。すなわち、可愛い小鳥の声を聞かせることで、乗降客の自殺願望を和らげようと言うのだ。日本では、それほど自殺問題が深刻なのである。録音の小鳥の声といい、自殺の多さといい、キューバではまったく想像も付かない異常さであろう。
アメリカ型資本主義とは、本当に人間を幸福にする在り方なのだろうか?
生きている小鳥の声を聴きながら、いろいろと疑問を感じてしまった。
再び革命博物館へ
ホテルを出て、革命博物館に向かう。
しかし、開館時間の9時半まで時間があるので、カリブ海をしばらく眺めて時間を潰そうと考えた。そこで、昨日のようにマレコン通りを北に渡ろうとしたところ、車の行き来が多すぎてなかなか動けない。すると、近くにいた色黒の精悍な青年が俺の窮状に気付き、俺の左腕を掴んで器用に向こう側まで連れて行ってくれた。「グラシアス」とお礼を言ったら、彼は英語で「お礼に1ペソくれない?」と返してきた。俺が「それはちょっと」と難色を示すと、「じゃあ、いいよ」と笑顔で去って行った。
別に1ペソくらいあげても良かったんだけど、Mさんに昨日、「キューバ人をおカネで甘やかさないでください」とキツく言われたこともあるし、似たようなシチュエーションの中で、トルコで危難に陥ったことを思い出して不安になったのだ。
ともあれ、美しいカリブ海をじっくりと眺めた。それに飽きたので、次に革命博物館北側の公園に移動して、こちらを散策することにした。
意外なことに、公園には小学生くらいの子供が多い。良く見ると、先生らしき人が付いているから、これは課外授業なのだ。私服姿の子供たちは、ペアを組んでゲームや競技をしている。なるほど、幼い子供のうちは、部屋で受験勉強なんかするよりも、こういったお遊戯で心を育む方が良いのかもしれぬ。日本の教育崩壊の現状を思いやり、またもやブルーな気分になってしまった。
もっとも、キューバで課外授業が多い理由は、建築資材の不足によって、学校に教室や体育館を増設出来ないという裏事情があるのかもしれない。
ともあれ、ロリ萌えアゲイン♪
お遊戯をする子供たちや豊かな公園の樹木を眺めているうちに時間になったので、博物館に向かうことにした。すると、博物館の建物の前に、黒光りする長砲身の巨大戦車が置いてあることに気付いた。スペイン語の表示板をじっくり読むと、これはどうやら1961年の「ピッグス湾事件」で活躍したソ連製戦車であるようだ。
日本ではほとんど知られていないが、「ピッグス湾事件」は、CIAの主導によるアメリカのキューバ侵略戦争である。カストロは事前に情報を入手していたので、万全の態勢でこの侵略軍を迎え撃ち、海岸線でのわずか3日の戦闘でアメリカ軍を全滅させたのだった。このときカストロを助けたのが、友好国ソ連から入手したばかりの銃器や戦車だったというわけだ。
さて、昨日のチケットを入口で見せたら、難なく入館出来た。せっかくなので、昨日と同じ順路で最初から見て行くことにした。今日は一人きりなので、Mさんに気を遣う必要が無いので、じっくりと時間をかけて革命の展示を楽しむことが出来る。
キューバ革命とは何か?
ここで、「キューバ革命」について語るのも一興かもしれぬ。
アメリカ政府や学界の公式見解では、キューバ革命とはこういう事件である。
「悪の帝国スペインの植民地であったキューバは、米西戦争の後、正義の国アメリカの保護下に置かれることで(1902年〜)空前の経済的繁栄を手にしていた。ところが、フィデル・カストロという権勢欲の強い狂人が現われて、キューバの中産階級を丸め込むことで軍事反乱を起こし、キューバを私物化してしまった(1959年〜)。のみならず、ソ連型社会主義を信奉する凶暴な独裁者カストロは、己の権力を維持するために、悪の帝国ソ連と手を組んでアメリカと敵対した。その結果、キューバは貧困極まりない不幸の国となった」。
この見解は、ほとんどのアメリカ人の間で共有されており、したがって親米的な日本人もこれが事実だと思い込んでいる。しかしながら、この見解はほぼ全てが間違いである。あまりにも突っ込みどころが多いので、どこから突っ込んだら良いのか分からないほどである。
まず、「スペインが悪の帝国だった」という見方はどうか?
これは、「悪」の定義をどう取るかによるのだが、「外国を侵略して植民地支配し、民衆から過酷な搾取する行為」を悪だと言うなら、確かにスペイン帝国は悪であったろう。
だが、それを言うなら、アメリカだって悪なのである。
スペインとアメリカの違いは何か?
前者は、スペイン総督をハバナに赴任させてキューバを直接支配した。これに対し後者は、キューバ人による傀儡政権を樹立し、これを背後から操ることで間接支配した。そういう相違に過ぎないのである。両大国がキューバに対してやったことは、実質的に全く同じである。
つまり、アメリカは決して正義の国ではない。
次に、アメリカ統治下のキューバが、「空前の経済的繁栄」を見せていたのかどうかを検討しよう。
これは、ある一面においては事実である。キューバに赴任したアメリカ人実業家は、砂糖産業の隆盛がもたらす好景気の恩恵を受けていた。
しかしながら、アメリカ白人が近付かないような農村部や山岳部では、医療も教育も洗礼も受けられない貧しいキューバ人が慢性的に飢えていた。彼らは、アメリカ資本によって過酷な搾取を受けていたのである。
すなわち、「キューバの経済的繁栄」というのは、アメリカ白人が住む都市部だけを見た狭い議論なのである。この当時のキューバは、今日の日本人にも想像出来ないような超格差社会であった。
もっとも、アメリカの権力集団は、後進国の格差社会を見ても心の痛みを感じない人々だし、キューバに住む「肌の黒い土人」のことなど最初から人間扱いしていなかったのだから、「キューバの経済的繁栄」について嘘を語っているつもりは毛頭無いのかもしれぬ。
フィデル・カストロが1953年に挙兵したのは、祖国のこういった超格差社会や人種差別の在り方に憤ったからである。必ずしも、権勢欲とか私利私欲ではない。
そして、カストロはキューバの中産階級と手を組んだわけではない。むしろ、実際に中産階級と手を握って革命を起こそうとした他の勢力は、全て没落した。なぜなら、キューバの中産階級は、程度の差はあれアメリカ資本のお零れに預かって美味い汁を吸っていたのだから、革命や格差是正にそれほど乗り気ではなかったからだ。
わずか82名で挙兵したカストロの革命軍が、3年間のゲリラ戦を生き残り勝ち残った理由は、その支持基盤が、現実にアメリカから搾取を受けている無数の貧困層だったからである。カストロを助け勝利させたのは、搾取され差別された貧困層の深刻な怒りなのであった。したがって、中産階級はむしろ彼の敵だった。だから、キューバの中産階級は、革命成功直後にマイアミなどに大挙して亡命したのである。
そのカストロが、ソ連シンパのマルクス派社会主義者であったのかどうかも微妙である。アメリカが、カストロを「社会主義者」と決めつけた理由は、彼が政権掌握後に農地解放などの「格差社会の是正」を行ったからだ。アメリカの権力集団の感覚では、これは「ソ連型社会主義」なのである。
しかし、カストロの挙兵は、そもそもの目的が祖国の経済格差の是正だったのだから、これを避けて通るわけにはいかなかった。また、彼の思想的支柱は、もともとソ連が奉ずるマルクス=レーニン主義ではなくて、ホセ・マルティの思想であった。
アメリカ権力集団の悪いところは、物事を多面的に重層的に分析して理解するセンスに欠けている点である。
キューバに限らず、旧植民地が独立して近代化を図る場合、従来の格差社会を是正するために、いったんは過激な社会主義政策を取るケースが多い。また、後進国が急激な近代化を行うためには、カリスマ的なリーダーを中心にして、上意下達の強権政治を行うのが普通である。これを「開発独裁」と言う。明治初期の日本や勃興期のトルコ共和国は、史上最も成功した「社会主義的な開発独裁」の事例であろう。最近の中国の急激な経済発展も、この型に当てはまる。
カストロは、日本やトルコや中国のようにやろうとして、結果的にキューバを「社会主義的な開発独裁」の国にしたのだ。カストロ本人が権勢欲の強いアクの濃い人物であることを否定する気はないけれど、彼には深刻な政治的必要があったので、祖国を社会主義にして、自らは独裁者のように振舞ったのである。
それなのに、アメリカは完全に誤解した。キューバが社会主義になったのは、ソ連の先兵となってアメリカを攻撃するためだと誤解した。カストロが独裁者のように振舞うのは、彼個人の悪徳のせいだと誤解し、カストロを殺すことこそ社会正義だと信じた。
なお、アメリカの権力集団は、これと同じ誤解を、後にベトナムやアフリカ諸国や南米諸国、さらに中東諸国に対して行うことになる。そして、無用な戦争やテロ攻撃を加えて無数の人々を殺すことになる。アメリカという国は、世界の盟主を自認するくせに、実は世界のことを何も知らないのである。
さて、カストロが最終的にソ連と手を組んだ理由は、彼の本質を誤解したアメリカがキューバに攻撃を仕掛けてきたからである。これがピッグス湾事件(1961年)だ。その結果、キューバは自衛上、ソ連を頼らざるを得なくなった。その反作用として、ミサイル危機(1962年)やチェ・ゲバラの横死(1967年)などの不幸な事件が次々に勃発したのである。
最後に、キューバが「貧困極まりない不幸の国」という見方はどうだろう?
確かにこの国は、アメリカや日本に比べるとインフラは貧弱だし慢性的なモノ不足だ。キューバのGDPは、ある統計によれば日本の5%程度と言われている。だけど、モノ不足だからといって貧困で不幸とは限らない。
要は、気の持ちようだ。
日本などは、貧困化しつつあるとはいえ、まだ餓死するほどの人はいない。それなのに、前途に悲観して自殺する人が年間3万数千人いる。こっちのほうが、よっぽど心が貧困で不幸な社会なのではないだろうか?
革命後のキューバでは、医療と教育は完全無料だし、生活必需品は無償配給されている。しかも、この国には経済格差がほとんど存在していない。すなわち、生活に不便がなく、みんな平等にモノ不足であるのなら、あまり自身の貧困を意識しないだろうし、不幸な気分にもならないだろう。
これはこれで、一つの幸福な社会の在り方なのではないだろうか?
人間社会は一つではない。アメリカ型資本主義ばかりが最善の社会ではない。
現地に来て痛切に感じたことだが、そもそもキューバのこの暑さで、アメリカ人や日本人のように勤勉に働くことは無理である。資本主義の自由競争の中で敗者になることは目に見えている。外国資本からの搾取の対象になることは目に見えている。それだったら、最初から資本主義の過酷なレースからリタイアして、競争のない気楽な平等社会を作ろうとしたホセ・マルティやカストロの見識は、実は非常に優れていたのではないだろうか?
アメリカ政府は、いい加減、それを認める心の度量を持つべきだと思う。そうなれば、アメリカとキューバは、何の問題もなく共存できるはずである。お互いの良い面を共有することで、お互いを高めることが出来るはずである。
革命博物館の様々な素晴らしい展示を眺めながら、いろいろなことを考えてしまった。
チェ・ゲバラとカミーロ・シエンフエゴス
さて、キューバ革命の二大英雄と言えば、チェ・ゲバラとカミーロ・シエンフエゴスだ。
革命博物館にも、この2人の特別展示室があった。といっても、2人の遺品や写真や蝋人形が飾ってあるだけの部屋なのだが。
2人の蝋人形は、なかなかかっこ良く出来ている。しかも、両者の個性の違いまで表現されていて興味深い。ゲバラ人形は真剣な表情で虚空を睨んでいるのだが、カミーロ人形は笑顔を浮かべて視線を低く向けている。
そこにはマディソンカウント、ケンタッキー州でどのように多くの郡の裁判官ですか?
アルゼンチンの富裕層出身のゲバラは、熱狂的なマルクス主義のイデオロギストで、世界共産革命の理想を大真面目に実現しようと考えていた人物である。すなわち、格差社会の是正を、全世界レベルで行おうとしたのである。その点で、現実的な「開発独裁型の社会主義者」カストロとは意見が合わない部分があり、ついにキューバを飛び出して貧困層のための世界革命戦争を指導したのだが、最後はボリビアにてCIAによって訓練された政府軍によって補殺されてしまった(1967年)。チェ・ゲバラは、その壮絶な生き様と端正なマスクが若者たちに偶像視され、世界中で人気者となっている。そして、格差社会を憎む人々のシンボルとなっている。
カミーロは、キューバの庶民出身で、ラテン気質の大らかな男だった。彼は、盟友ゲバラのような教養やイデオロギーは持っていなかったが、祖国の格差社会の在り方を憎み、貧しい庶民たちを救済するためにカストロの革命軍に身を投じた。そして、バティスタ将軍率いるアメリカ傀儡政権との最終決戦では、ゲバラ以上の軍略の才を発揮して革命軍の勝利に大貢献。ところが、革命成功後間もなく、飛行機事故で逝去してしまう。一般のキューバ人は、いつも笑顔で冗談を言っていた庶民的なカミーロの方が、教条的で厳格だったゲバラよりも好きであるらしい。
歴史上の評価というのは面白いもので、道半ばで残念な死を遂げた英雄は、極端に美化される傾向がある。たとえば、カエサル、織田信長、坂本竜馬、ケネディなどがそうだ。坂本竜馬などは、業績が過大評価されるのみならず、顔までハンサムだったことにされている。写真を見る限りでは、サル面だけどなあ(笑)。福山雅治じゃねえだろ(爆)。
ともあれ、この人たちは中途で死んだからこそ美化されるのであって、長生きし老醜をさらしていたら、まったく逆の評価になっていた可能性が高い。織田信長は、長生きしていたら、おそらく秀吉に代わって朝鮮半島に攻め込み、コテンパンにされて恥ずかしい惨めな姿をさらしたことだろう。坂本竜馬だって、維新後は実業家になりかったらしいけど、事業が成功したとは限らない。いつも美化されるケネディなんぞは、実は、生前に出した法案がほとんど議会を通らなかった無能な大統領だったりする。
ゲバラとカミーロも、早世したからこそ美化されている面がある。もしも長生きしていたら、どんな評価になっていたか分からない。ゲバラなどは、非現実的なイデオロギストの面が加齢とともに強くなって、鼻もちならぬ嫌な人間と評されていたかもしれぬ。ただ、竜馬などと違って、2人とも実際にハンサムだったことは、写真を見る限り間違いない(笑)。
我が国の「歴女」は、アニメやゲームに出て来る極端に美化された戦国武将に激しく萌えているらしいけど、そんなインチキに騙されてアニメ会社やゲームメーカーを儲けさせるくらいなら、実際にハンサムだったゲバラやカミーロにこそ萌えるべきではないだろうか?(笑)
そういうわけで俺は、「ゲバラ萌え腐女子」を「歴女」なんぞより尊敬している。ただ、このいずれも、昔の「ヨン様ブーム」と同様で、現実の日本男子が、かっこ悪くて情けないことへの反動なんだろうけどね(泣)。
まあ、気持ちは分かる。俺が女性だったとしても、今の日本の男性には全く魅力を感じなかったに違いないから。
捕らわれた5人
一通りの展示を見終わったので、吹き抜けの内廊下に出た。
そこには、いくつもの政治ポスターが貼ってある。印象的だったのは、「捕らわれた5人を返せ!」という反米宣伝ポスターだ。これは、ワシントンの「キューバ利益センター(大使館みたいなもの)」に駐在していたキューバ人外交官5名が、「スパイ容疑」で子ブッシュ政権に逮捕監禁された事件を指す。
外交官とスパイの差は非常に曖昧なので、実際に彼らがスパイ活動をしていた可能性はある。だが、それはどこの国の外交官にも当てはまることなので、アメリカ政府がキューバ人外交官だけを逮捕監禁するのは、やはり特別な悪意としか考えようがない。
もっとも、カストロ政権は、ある意味でアメリカのこういった悪意を利用している側面がある。定期的に「反米キャンペーン」を行えば、全キューバ国民の結束が高まるし、カストロ政権への求心力も維持できるからである。そして、その口実をアメリカ側が、わざわざ積極的に与えてくれるのだから間抜けな話だ。
Mさんは、昨日、こんなことを言った。「アメリカがカストロ体制を倒すのは、実は簡単なんです。キューバに対する経済封鎖や誹謗中傷を止めて、優しくすれば良いのです。そうすれば、キューバ国民はアメリカに靡くから、現政権は倒れることでしょう。もっとも、それがキューバ人にとって幸福かどうかは分かりませんが」。
おそらく、Mさんが言うことは正しい。
しかし、逆もまた真なり。
アメリカ側も、国内の政治的求心力を高めるための「身近な脅威」が欲しいのではないだろうか?その役には、イランや北朝鮮では距離が遠すぎるので、すぐ近くにいるキューバこそが打ってつけだ。すなわちアメリカは、キューバにいつまでも「脅威」のままでいて欲しいのだ。だから、わざと冷たく残酷に扱って、意図的に和解の道を閉ざしているのではないだろうか?
などと考えつつ1階まで階段を降りて来ると、突き当りの壁に大きなパネルが貼ってあり、レーガン大統領と父ブッシュ大統領の戯画化された姿があった。なるほど、この2人は、最も多くの損害と打撃をキューバに与えた人物だ。だからこそ、こうやって博物館で「悪漢ども」と称されて吊し上げになっているわけね。
でも、逆に考えるなら、こいつら以外のアメリカ大統領に対しては、キューバ人はそれほど悪意を持っていないということか。朝の散歩で見かけたリンカーン像を思い浮かべてしまった。
グランマ号
さて、この壁を左に進めば出口、右に進めば屋外展示の「グランマ号」だ。俺は迷わず右へと進む。
ところで、「地球の歩き方」には、「グランマ号周辺は、武装兵士が厳重に見張っているので近づけない」と書いてあるのだが、これは嘘である。おそらく、取材した人が遠目に兵士の姿を見て、「うかつに近づいたら北朝鮮みたいに発砲される!」と早とちりして、間違った報告をダイヤモンド社に上げてしまったのだろうな。
何事も、先入観と決めつけは良くないよ。
そういうわけで、巨大なガラス張りの中に鎮座するヨット「グランマ号」は、ガラス越しではあるけれど見学自由である。確かに、ガラスの近くに2人の兵士が銃を抱えて立っていたけど、こちらが近づくと静かに道を開けてくれた。
「グランマ号」は、前日の日記にも少し書いたけど、カストロ兄弟やゲバラやカミーロを中心とする革命戦士82名が、メキシコからキューバに強襲上陸する際に乗り込んだヨットである(1956年11月)。彼らが、最大積載25名の中古ヨットしか使えなかった理由は、純粋に金銭問題である。しがないメキシコ亡命者に過ぎなかったカストロは、アメリカ人富豪が使い古した小型レジャーヨットしかチャーター出来なかったのだ。
嵐の海の中を、飲料水と食糧の不足に苦しむ乗員を乗せて5日間も漂流した超過積載の「グランマ号」は、それでもなんとかキューバ東部オリエンテ州の海岸に到着した。しかし、その3日後に政府軍の奇襲攻撃を受けて、上陸した仲間はほとんど殺されてしまい、生き残りはわずか12名。この12名の中に、カストロ兄弟とゲバラやカミーロが残っていたのが奇跡である。しかも、そこから挽回して革命を成功させたのだから凄い。 Mさんも言っていたことだが、「楽天的で明るい気性のキューバ人だからこそ、諦めずに頑張れた」のかもしれない。
ともあれ、この中古ヨットが頑張って嵐のカリブ海を走らなければ、キューバ革命は成功どころか端緒にも付かなかったのだから、その功績は偉大なのである。
なお、「グランマ号」がガラスに囲まれて厳重に警護されている理由は、アメリカによるテロ攻撃を警戒しているというよりも、熱狂したキューバ市民による狼藉を恐れているかららしい。随分と昔の話だが、革命がらみのお祭りがあったときに、興奮した市民が数百人も乗り込んで踊り出し、危うくこのヨットを全壊させそうになった。それ以来「グランマ号」は、文化財保護(?)の観点から、ガラスケースに入れられて厳重に警護されるようになったのだ。いかにも、お祭り好きなキューバ人らしい話だ。
さて、巨大ガラスケースの周辺には、他にも革命にまつわる様々な物が陳列してある。「ミサイル危機(1962年)」の際に撃墜されたアメリカのU2偵察機の残骸。あるいは「ピッグス湾事件(1961年)」の時に活躍したキューバ軍のT34戦車やシーフューリー攻撃機。そして、革命戦争中にカストロ兄弟やフアン・アルメイダが座乗していた指揮用ジープなど。
フィデルのジープに、銃弾の跡がボコボコ開いていたのには驚いた。なるほど、この人物が、常に全軍の最前線にいたという話は真実であるらしい。そして、こういう勇敢な人物がリーダーだったからこそ、他の仲間たちも圧倒的な逆境に負けずに頑張れたのかもしれない。
ハバナ・バスツアー
さて、革命博物館の展示にあまりにも熱中したために、戸外に出た時、時刻は午後2時近かった。やはり異常に暑い。そのせいもあって、あまり腹は減っていないので、昼飯はキャンセルすることにした。
いちおう、午後はMさんと落ち合う約束だから、面倒だけど携帯に連絡を入れなければならないだろう。
などと考えつつ、ホテル・プラサに帰って来た。1階のバーでラム酒カクテル・ダイキリを飲んだが、美味であった。俺がいつもチップをあげるものだから、バーの店員さんも非常に愛想が良い。っていうか、キューバ人は基本的に人懐こくて愛想が良い。昨年の旅行先で出会ったポーランド人とは雲泥の差である。「社会主義は愛想が悪くて、資本主義だと愛想が良い」というのは、ステレオタイプの偏見なのかもしれない。
カバンを取りに部屋に帰ると、ベッドの上に紙片が置いてあった。そこには、「ありがとうございます。素敵な旅になりますように。あなたのメイドより」と、英語の手書き文字が踊っていた。どうやら今朝、枕もとのテーブルの上にチップを置いてあげたことへの礼状らしい。チップごときに礼状を書かれるのは、生まれて初めての経験なので驚いた。ということは、キューバでは普通、旅行者はチップを置かないのだろうか?「地球の歩き方」には「チップ必須」と書いてあるのだが、これも「グランマ号」の時と同様に偽情報なのかもね。
ともあれ、人にお礼を言われるのは気分が良い。
ルンルン気分でMさんに携帯電話で相談すると、「ハバナ・リブレ」で待ち合わせすることに決まった。そういうわけで、これから新市街に移動しなければならぬ。いつもタクシーを使っているので、今日は趣向を変えてバスを利用することにした。
幸い、中央公園から「ハバナ・バスツアー」というのが出ている。これは、要するに「はとバス」である。路線はT1からT3まであって、T1は新市街から旧市街にかけての名所周遊路線。T2は西の郊外行き。T3は東の郊外行きである。つまり、新市街に行くためにはT1に乗らなければならない。
俺は、バス停の前でずっと待っていたのだが、時刻表に記された発車予定時刻になってもT1が来ない。待ちくたびれた上に、間違えてT3に乗り込んでしまい、発車前にあわてて飛び降りたりした。さすが、キューバ社会は時間に無頓着である。街の中に、時計がまったく存在しないだけのことはある(笑)。
そうそう。ハバナの街で恐ろしいのは、ホテルのロビーに行かないと時間が分からないことである。キューバ人には、時間どおりに行動する習慣が無いのだろうか?さすがはラテン系で社会主義の人々である。ちなみに俺は、成田空港で買った目覚まし付き懐中時計を常に携帯することで、このピンチをかろうじてクリアしているのだった。
諦めてタクシーを拾おうとしたのだが、ちょうどお昼寝タイムなのか、ホテルの前に行っても運転手不在の空車しか見つからなかった。みんな一斉に仕事をサボるとは、さすがラテン系である(笑)。
俺は、東京でいつも時間に追われる生活をしている。そして、そんな自分の生活が好きだったりする。だけど、キューバみたいに時間が静止したような社会も悪くないような気がして来た。こういう社会や生き方も、有りかもしれない。
などと考えつつ中央公園周辺をウロウロしていると、悪臭を漂わせた乞食におねだりをされた。無視して足早に立ち去ったのだが、待てよ、乞食だって?
どうして、キューバに乞食がいるのだ?話が違うじゃないか!
この国では、「全国民に生活必需品が等しく配給される」建前になっている。それが本当だったら、キューバに乞食が存在するはずがないのだ。
「ついに、カストロ政権の虚飾を発見したぞ!」と快哉を叫んだのだが、後でMさんに聞いたら、かなり特殊な事情があることが判明した。ハバナで乞食をしている人は、家庭内紛争や犯罪などの理由で、家を捨てて放浪している人なのだそうな。住所不定であるから配給も行き届かず、したがって乞食をするしか生計を立てる術がない。なるほど、どんな社会でも例外はあるということだ。
でも、乞食が大手を振るって繁華街の観光地をウロウロしているとは、キューバ社会は想像以上に「ゆるい」んだな。こういうのを取り締まるべき警官は、いったいどこで何をしているのやら?それ以上に、この緩い国のどこが「全体主義の警察国家」なのか、アメリカ政府に問いただしてみたいところだ。
オハイオ州大陪審の仕事はどのようにしますか?
結局、1時間以上も炎天下の中で待って、ようやくT1路線のバスがやって来た。乗り込んですぐのところに料金所があり、そこのお姉さんにお金を払う仕組みになっている。料金は、「地球の歩き方」では5ペソとなっていたが、実際には3ペソだった。世界同時不況を勘案して、値下げしてくれたのだろうか?そういうところにも、この国の「ゆるさ」を感じる。
赤と青で彩色されたT1の車輌は、大型の2階建てバスだ。こいつの2階はオープンルーフになっていて景色が良く見えそうなので、俺は小さな螺旋階段を上がって2階席に座った。周囲のまばらな客は、みんな白人系の外国人観光客である。
T1バスは、ホセ・マルティ通りからマレコンに抜け、この海岸通りを新市街に向かって西向きに快走した。うひゃー、海風がすごく気持ちよい。しかも、高いところからの眺めも最高だ。これは、大当たりである。
いちおう観光バスだから、名所解説もちゃんと英語で入る。T1は、「アントニオ・マセオ像」を左側に見て、「アメリカ利益センター(大使館みたいなもの)」の前を通り、昨晩訪れたホテル「メリア・コイバ」の前で南へと左折して、新市街の中へ入って行った。
車内の路線図を見ていて気付いたのだが、このバスは新市街の南側で「革命広場」に寄ってから、帰路に「ハバナ・リブレ」に寄るコースを取るようだ。しかし俺は、Mさんと「ハバナ・リブレ」で落ち合った後で、「革命広場」に行く旅程を考えていた。ということは、このまま「革命広場」のバス停を乗り過ごして「ハバナ・リブレ」まで行ったら、オーバーランになってしまう。
そこで俺は、「革命広場」でバスを降り、携帯電話でMさんに事情を説明し、彼女に直接ここまで来てもらうことにした。こういうとき、ケータイは便利である。
革命広場とバス・ターミナル
さて、バスを降りて革命広場を見回す。
ここは、内務省や法務省などの政府施設に囲まれた最重要拠点のはずだが。
びっくりするくらい殺風景だ。
広場自体はとても広いのだが、ひび割れたアスファルトと雑草に覆われた空き地としか思えない。最盛期には、ここに100万人の民衆が集まってフィデルの演説を聞いたらしいけど、とてもそうは思えない。「兵どもが夢のあと」ってところか?
周囲に建つ政府系施設も、平凡な無機質的なビルばかりで、なんだか物悲しい。今日は平日で、しかも昼間なのだが、本当に中で人が働いているのか疑問になる。見回すと、俺の周囲には誰も人がいない。有名な内務省の側壁に設えられたチェ・ゲバラのレリーフを見つめつつ、こっちまで寂しくなってしまった。
革命広場に隣接する施設の中で、最も立派で目を引くのが、「ホセ・マルティ記念館」だ。ここは、元はキューバ共産党本部だったという、星型の平面を持つ白い巨塔である。その正面に巨大なホセ・マルティの石像があるので、その近くで Mさんを待つことにした。
マルティ像の前には、たくさんの花束が置かれてある。なるほど、この人は今でも多くの市民に尊敬されているのだな。それはともあれ、とにかく暑い。巨大マルティ像が作る日陰が無ければ俺は焼け死んでいたに違いないから、マルティ様は命の恩人だ(笑)。
1時間近く待って、ようやくMさんが現れた。なんでも、タクシーがまったく捕まらずに苦労したのだとか。タクシーの運ちゃんは、まだ集団で昼寝中なのかね?(苦笑)
せっかくなので、ここ「ホセ・マルティ記念館」に入ろうと思ったら、チケット売り場で売り子さんに「今日は展望台を使えない日です」と言われてしまった。この塔の最上階の展望台からの眺めが最高だと聞いていたので、それはとても残念だ。
それじゃあ、記念館の展示だけ見ようかとも考えたけど、博物館系は午前中にたっぷりと見ているから、さすがに今日はもういいや。
するとMさんが、「バス・ターミナルに用がある」と言い出した。
なんでも彼女は今度、日本から来る別の旅行者の案内をする事になったのだけど、その人が長距離バスでの旅行を考えているので、事前にバスの切符を買っておかねばならないのだとか。そして、チケットはバス・ターミナルでなければ買うことが出来ず、その場所はここから南方にかなり離れているそうな。
「いつも思うことですが、電車がロクに使えないからバスで移動するしかないというのに、バス・ターミナルの場所が辺鄙なのは許せない!」と、Mさんは珍しくお怒りである。ともあれ、料金は彼女が支払うというので、タクシーを拾ってバス・ターミナルに移動することにした。
・・・冷静に考えたら、俺まで同行する必要は無いのではないか?せっかくケータイがあるのだから、Mさんが用を済ませてから別の場所で会えば良いじゃん。と思ったけど、Mさんが革命広場の端っ子で「ココ・タクシー」を拾おうとしたので、気が変わった。「ココ・タクシー」には前から興味があったのだ。
こいつは、ココナッツの形をした三輪バイクである。童心にかえってウキウキ気分で乗ったは良いが、物凄く揺れるので乗り心地は悪かった。しかも、支払いの時にびっくりするくらいの料金を請求されたので、 Mさんは激怒していた。
・・・現地に長く住んでいる人でも、簡単にボラれちゃうのか。キューバ人、恐るべし。
ともあれ、革命広場から5キロくらいの場所にある小さな駅舎のような国営バス・ターミナルに到着である。Mさんがチケットを買っている間、俺は長距離バスの路線図を眺めて楽しんだ。もっと時間があれば、サンタ・クララやサンティアゴ・デ・クーバまで足を伸ばしたかったけど、さすがに現地に3日しかいられない旅程では無理だな。
随分と手間取ったようだが、Mさんがようやく仕事を終えたので、一緒にターミナルの外に出た。すると、若い日本人女性が現れて、旧知のMさんと談笑を始めた。俺も挨拶くらいはしたのだが、この女性もキューバに住み着いている人で、 Mさんと同様の用事でバス・ターミナルに現れたという。その人と手を振って別れたら、間髪入れずに別の日本人女性が登場。やっぱりMさんの知り合いのこの人は、やっぱり同じ用事でやって来たのだった。
このバス・ターミナルは、なぜか日本人女性に大人気である(笑)。っていうか、ハバナに住み着いている日本人って、意外に多いんだねえ。ただし、みんな、政治的に左翼という感じではないので、サルサ音楽とかそういうのに惹かれて来たのだろう。
さて、ターミナルの前には、ちゃんと普通のタクシー(運ちゃん付き)がいたので、こいつに新市街中心部まで乗って行くことにした。
葉巻とアイスクリーム
「ハバナ・リブレ」の前でタクシーを降りて、ホテルの構内に入った。
まずは、お土産の葉巻を買わなければならない。Mさんを紹介してくれたクライアントの社長に、キューバ葉巻を買ってくるように頼まれていたのだ。
ただし、俺は用心のためにクレジットカードをホテルに置いてきたし、財布の中にもあまり現金の持ち合わせがなかった。事情は現地に来る前にメールで説明しておいたから、てっきり Mさんが立て替えて買っておいてくれると思いこんでいたのだが、彼女は金欠状態なので買えていないという。おいおい。2人とも金欠では、お手上げじゃん。
とりあえず今日のところは、社長に頼まれた本数の半分を、Mさんに持ち合わせの現金で買ってもらい、残りについては後日考えることにした。
Mさんは家に帰ってから、この葉巻に付いている商標リングを一本一本外す作業をするのだという。なぜなら、帰りのアメリカ税関でキューバ葉巻を発見された場合、問答無用で没収されてしまうからだ。それを避けるためには「キューバ産」を示すリングを全て、今のうちに撤去しておく必要があるのだという。
うわー、面倒くさい。
そもそも、クライアントの社長の無心のために、そこまでMさんが骨を折る必要があるのかどうか?まあ、社長とMさんの間には、それなりに友情があるようだから、そこはお任せするしかない。
というより、アメリカは本当に酷い国だね。経済封鎖の一環だか知らないけど、日本人が日本で稼いだカネでキューバ製品を買うというのに、それを問答無用で没収するとはいったいどういう料簡なのだ?せめて、没収ではなく買い取りにしてもらいたい。でも、それでは「見せしめ」にならないってか?
「世界の大番長」の理不尽な横暴と我儘には、いい加減にウンザリだ!
ともあれ、首尾よく葉巻を買えたので(予定本数の半分だが)、近場の有名店「コッペリア」にアイスクリームを食べに行くことにした。
1960年代に、CIAがアイスクリーム屋でカストロを暗殺しようとしたことがある。舞台は「ハバナ・リブレ」に隣接したアイス屋というから、恐らくここ「コッペリア」だったのだろう。
当時のカストロは、「ハバナ・リブレ」のペントハウスに住んでいたのだが、アイスが大好きなので、しばしば近所のアイス屋に出かけていた。カストロがキューバ国民に好かれる理由は、強面の剛腕政治家でありながら、こういった庶民性を失わないからであろう。
さて、それを知ったCIAの暗殺者は、カストロが大好物にしていたアイスのコーンカップに猛毒を投じようとした。しかしながら、低温のアイスボックスに隠して毒を持ち込んだため本番で解凍することができず、この作戦は失敗に終わったのであった。ある意味、間抜けな話である。
CIAのカストロ暗殺工作は、通算で200回近くに及んだと言われている。それを全て跳ね返したのだから、やはり「カストロ恐るべし」である。
ちなみに、CIAによって殺されたり失脚させられた中南米の権力者は、それこそ史上数え切れないほどいる。アメリカには「騎士道」とか「武士道」という道徳概念は存在しないので、目的のためなら手段を選ばないのだ。
これに対して、彼らが「悪魔」と罵るカストロは、こういった卑怯な手段を用いたことがない。カストロは、ある種の騎士道精神の持ち主なのだ。
それなのに、日本で知人に「キューバの小説を書いているところだ」と言うと、「カストロが怒って暗殺者を差し向けて来るぞ!」と、真顔で心配する人が多い。俺を殺しに来る奴がいるとすれば、それはアメリカのCIAだろう。
つまり、日本人は本当のことを何一つ知らないのである。アメリカ発の偏向情報によって、完全に騙されているのである。こんなことだから、我が国は世界の潮流からいつも取り残されているのである。我々は、この事実をもう一度真剣に考えてみるべきである。
ともあれ、「コッペリア」のマンゴーアイスは非常に美味かった。
新市街散策
その後、我々は「ハバナ・リブレ」付近の大通りを散策しつつ、露店の土産屋などを冷やかして回った。
俺は「ゲバラ人形」を買って帰りたかったのだが、残念ながら品切れだった。もっとも、仮にゲバラ人形を発見したとしても、帰りのアメリカの税関で没収される可能性が高いので、買わない方が賢明なのだろうけど。
・・・改めて、ムカつくな。アメリカ。
すると、「ナイトライフはどうします?」とMさんに聞かれたので、「キャバレーに行きたい」と答えた。そこで、近くの「ナシオナル・デ・クーバ」まで、このホテルの特設会場エル・パリジャンで開催されるキャバレーのチケットを買いに行った。幸い、今夜の公演分の格安チケットが手に入ったのだからラッキーである。
用が済んだので、この美麗なホテルの裏側にある立派な庭園を散歩した。小高い丘のようになった庭園からは、カリブ海やマレコン通りを一望に見渡せる。
それにしても、ハバナ新市街は本当に楽しいな。新宿や渋谷を歩くより、こっちを散歩する方が、遥かに幸福感がある。確かにモノは豊富とは言えないが、それに代わる何かがこの街には確実に宿っているのである。旧市街や中央市街はボロいので遠慮したいけど、新市街になら住んでも良いかもしれない。
さて、眼下に広がるマレコン浜は、出会いを求める男女の社交場なのだそうな。いつも夕方から大勢の男女が集まり、酒を酌み交わしつつダンスを踊りつつ相方を探すそうな。曜日によっては、同性愛者専用の溜まり場になるとか。なるほど、「ゆるい」のね(笑)。
俺も、スペイン語が出来れば、そういう場所に遊びに行っても良いかもしれぬ。今度来るときは、しっかりとキューバ訛りの(笑)スペイン語を習得しておくとしよう。今のコミニュケーションレベルでは、おそらく犯罪に巻き込まれて終わりである。この国の泥棒や、ボッタくりの能力を侮ることは禁物である。
それにしても、事前の想定とは違って、この国には売春婦が少ない。アメリカ発の情報によれば、「キューバ政府は外貨獲得のために売春を奨励している」ことになっている。もちろん、俺はアメリカ人の言うことなど最初から信用していないけど、それでも街に外国人観光客目当ての売春婦が大勢いるかと思っていた。
なにしろ、キューバ人女性は、わずか一晩のお相手料金で半年分(!)の生活費が得られるのだ。さらに、「外国人と結婚したら、自由に海外に移住できる」という法律があるので、積極的に外国人観光客との結婚を狙う女性も多いらしい。と、 Mさんに聞いた。
そういうわけで、実は俺も、「キューバでならモテるのではないか?」という期待を少しは持っていたのだ。なにしろ日本では「狂人系の変態」と思われて、女性たちから唾を吐きかけられ便を投げつけられるような日々なので(泣)、たまにはモテ男の気分を味わってみたいわけさ。
ところが、街で出会う女性は、俺と目さえ合わせようとしない。「俺ってば、よっぽどモテないのだな」と悲嘆しつつ、実は「キューバには売春婦が多い」という先入観が間違っていたことに気付いた。むしろ、この国の女性の道徳心の高さ(=知らない男とは目を合わせない)はトルコ人に近いと感じた。
ただし、キューバ人はラテン系だから「恋多き」ことは間違いないのだろう。俺も、マレコン浜とか、そういう社交場に行きさえすれば、それなりにモテるのかも。
アメリカ人は、キューバ人女性のそういう様子を見て、勝手に彼女たちの外国人男性との自由恋愛を「売春」だと決めつけているのかもしれない。何しろアメリカは、悪意と偏見のフィルターを通してしか、この国を見ようとしないからな。
逆に、日本人の中には、「善意の偏見フィルター」を通してしかキューバを見ない人々がいる。『小さな国の大きな奇跡』とか、『世界がキューバ医療を手本にするわけ』などといったキューバ本を、書店で見かけるでしょう? Mさんは、こういった書籍の著者たちの取材に同行して、通訳をしたことがあるという。
彼女によれば、著者たちの取材のやり方は酷いものだったとか。キューバ政府の官僚たちの言い分をそのまま文章にしたり、あるいはハバナのプレスセンターでキューバ政府にとって都合の良いプロパガンダ情報だけを集めて本にしているらしい。つまり、著者たちは自分自身の足で街を歩いたり、自分自身の頭で考えたりしないそうな。そんなのは、そもそも「取材」とは言わないだろう。
俺も、これらの本を何冊か読んで、あまりにも「褒めすぎ」なのに違和感を覚えていたのだが、Mさんの話を聞いていろいろと納得した。政府のプロパガンダをそのまま真に受けるくらいなら、今の俺のように自分の足で市井を見て回る方が、よっぽど本物の取材になるはずだ。と、自画自賛。
そういえば、これもMさんに聞いた話。
日本の左翼の老人が、キューバを訪れて買い物をしたときに、真面目な社会主義国に住むキューバ人の潔癖性を信じて、大枚の入った財布をそのまま渡し、「適正な額を抜いてください」と言ったら、財布の中身を全て抜かれたとか。
そりゃあ、そうなるだろう(爆)。
・・・以前から思っているのだが、日本で左翼を自称している人って、実はみんな頭が悪いんじゃないのかい?(笑)。F島みずほ大臣とか、大丈夫かね?弁護士だからって頭が良いとは限らないんだよ。むしろ、一般の人より頭が悪いことが有り得るんだよ。
などと心配しつつ、「ハバナ・リブレ」に戻ってきた。そして、その正面にあるCDショップでお土産用のCDを物色する。友人のスエゾーちゃんに、キューバ音楽のCDを頼まれていたので、 Mさんの助言を聞きつつ、なるべくポピュラーなのを選んだ。もちろん、自分用にも一枚買った。「パリの貴公子」の写真がジャケットになっているジェラルド・アルフォンソの新作だ。帰国して聞いたら、すごく優しくて明るくて、いかにも「キューバ」という感じが気に入った。
Mさんは、この店でのDVDの購入も勧めて来る。実は、キューバのDVDは日本と規格が一緒なので、そのまま日本の家庭で見られるらしい。だけど、俺はスペイン語が不自由な人なので、スペイン語版DVDを買ってもあまり意味がない。
そこで、代わりにカストロやゲバラの絵葉書をいくつか買った。ハンサムなゲバラの絵葉書は、日本で「ゲバラ萌え腐女子」の歓心を買う上で有用かもしれぬ(笑)。
そして、CDや絵葉書なら、モノが小さいからアメリカの税関で見つかることもあるまいと思案したのだった。
戦慄!ババア娼婦の襲撃!
時計を見ると、もう夕方5時半だ。
周囲は、学校帰りと思われる学生が多い。みんな、小腹がすいたのか、沿道でホットドックなどを買っている。パンにベーコンとチーズを挟んだのが人気筋のようだ。こういう光景は、日本やアメリカと同じである。
葉巻の大きな箱を抱えるMさんは、泥棒を恐れて周囲を不安げに見回す。彼女は夜から用事があるらしいので、俺は彼女の家の近くまで護衛しつつ送って行った。
Mさんは、明日も仕事が忙しいらしいので、明日の夕飯だけ一緒にする約束をして別れた。それから一人で「ハバナ・リブレ」の前まで戻って、T1のバス停でハバナ・バスツアーを待った。言い忘れていたが、このバスは一度チケットを買えば、一日中乗り放題なのである。だったら、使わなければ損である。なかなか来ないけど(苦笑)。
バス停の近くの縁石に腰掛けて、沿道の人々が気だるそうに動く様子をのんびりと観察した。下手な観光名所をウロウロするより、現地の人々の生身の生活を見ている方が、俺の性に合っていて楽しいのだった。
やがてT1が来たので、受付の姉ちゃんにチケットを見せて2階席に収まった。再び、マレコン浜の微風を全身に楽しく受けつつ旧市街に向かう。
バスは、ほどなく中央公園に到着したのだが、どうせ無料なのだから、面白半分に終点(どこだか知らないけど)まで乗って行くことにした。
バスは、マキシモ・ゴメス像の前をグルっと回りこんで、アタチュルク像の前を南下し、フエルサ要塞の前で停まった。すると、俺の座席正面の拡声器から、同じ口調のアナウンスが何度も流れ始めた。不審に感じて周囲を見回すと、この時点でのバスの乗客は俺一人であることに気付いた。どうやら拡声器は、「バスはこれから車庫に入るので、この場で降りろ」と促しているのだった。アナウンスがスペイン語だから、言われていることが良く分からなかったというわけ。そこで、カバンを抱えて慌てて飛び降りた。
それにしても、フエルサ要塞の前とは、中途半端なところで降ろされたものだ。まあ良い。夕方のオビスポ通りを冷やかしつつホテルに帰るとしようか。
さすがに夕方6時だと、周囲の暑さは和らぎつつある。しかし、妙に体が気だるいのは、日射病の初期症状だろうか?ここは、ミネラルウォーターを補給して体を休める必要があるだろう。
などと考えつつ、大勢の観光客が行きかうオビスポ通りを西に向かって歩いていると、いつのまにか右横にピッタリ、白人系のデブのオバサンが並んでいた。
50年配と思われるそのオバサンが、たどたどしい英語で話しかけて来た言葉は、「今晩、あなたとアタシ、どう?」。
キターーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!☆彡
やっと巡り合えたぞ、売春婦!
とうとう出たか、売春婦!
やっぱり居たのね、売春婦!
しかし、残念ながら、俺はオバサンが嫌いなのだ。オバサンとアバンチュールするくらいなら、幼女とお医者さんごっこをする方が100億倍も楽しい人なのだ。・・・やったことないけどね(泣)。
そこで、「ごめんなさい、今夜は別の用事があるんです」と言って、足早に逃げた。
ううむ、俺ってキューバに来ても、ババアにしかモテないのね。なんだか、とっても悲しくなって来た。この国に来て、初めてブルーになった瞬間である。こんなことなら、誰からも声をかけられない方が幸せだったに違いない。
ともあれ、ホテル近くの雑貨屋でミネラルウォーター(1ペソ)のペットボトルを買って、部屋に帰って一気飲みした。日射病の初期症状には、これが一番の薬である。
それから、小腹が空いたので、Mさんに薦められた中央広場に面したイタリアン・レストランに行ってみることにした。考えてみたら、今日は昼飯を食べていないのだから、空腹なのは当然である。
ヨーロッパ風の洒落たレストランの中で、バハネロ・ビールとトマト・スパゲティを頼んだのだが、どちらも頗る美味かった。特に、スパゲティの美味さは格別である。お勘定をお願いしようとして、通りかかった白人系のウェイトレスに向かって、指を顔の前でクロスさせたら、お姉さんはショックを受けて泣きそうになった。
いかん!
俺は、「チェックして」という意味でクロスを作ったのだったが、「不味い」という意味に誤解されたらしい。それで、慌てて「美味しかったよ」とスペイン語でフォローしたら、お姉さんは「本当?嬉しい!」と満面の笑顔になった。
なるほど、キューバ人は純朴なんだなあ。ババア娼婦の不快感が、かなり和らいだぞ。
また、お勘定は10ペソで済んだので良心価格であった。
キャバレー
さて、今夜のお楽しみは、ババア娼婦(怒)ではなくてキャバレーだ。
部屋で少し仮眠を取ってから、ホテルの前でタクシーを拾って新市街のホテル「ナシオナル・デ・クーバ」まで移動した。
このころになると、俺はキューバでのタクシーの賢い利用方法を会得していた。乗る前に料金交渉をして、値段をフィックスさせるのがコツなのである。旧市街から新市街までは5ペソが相場らしいので、乗る前に運ちゃんに「シンコ(5)ペソ」と主張して、うんと言わせれば安心である。キューバ人は、約束に対しては義理がたいので、後になって約束を破るようなことはしないからだ。
そういうわけで、5ペソで「ナシオナル・デ・クーバ」に到着した。フロントの脇に造られた回廊を抜けると、特設会場「エル・パリジャン」があった。
入口にタキシードを来たオジサンたちが笑顔で待っていて、チケットのチェックをする。しかし、受付のオジサンは俺の足を指さして、スペイン語で何か言って怒るのだ。困っていると、片言の英語が出来る別のオジサンがフォローに現れた。どうやら、このキャバレーにはドレスコードがあるので、半ズボンの人は入れないのだとか。
ゴルフ場かよ!
っていうか、そんなの聞いてないよ!
俺が途方に暮れていると、オジサンたちは鳩首して相談し、特別に2階席から見て良いことになった。キューバが「ゆるい」国で、本当に助かったなあ。
受付奥の急な階段を上がったところにある2階席は、大入り満員の時だけ使われるのだろうか?いちおう丸テーブルとイスはたくさん置いてあるけど、照明は落とされていた。俺は、真っ暗な丸テーブルの最前列に一人ポツンと座った。それでも、ウェイターはちゃんと注文を取りに来るので、とりあえずダイキリを頼んだ。料金は、その場払いだ。
2階席から1階の客席フロアを見下ろすと、眩しい照明の中、ここと似たような配置の丸テーブルに大勢の家族連れや友人連れの観光客が群がっていた。さすがに、一人で見に来ている奴は見当たらないな。ってことは、1階席に座って周囲の団体客から浮いてしまうよりも、2階席に一人で座る方が、かえって良かったのかもしれぬ。と、なんでも前向きに考える俺であった。
ところで、日本に帰ってから「キャバレーに行った」と言うと、オジサン仲間はみんな好色そうな顔を浮かべる。どうやら、「キャバクラ」とかその類の店だと勘違いしているらしいな。まったく、スケベどもが(苦笑)。
いちおう説明すると、キューバのキャバレーは「ステージ・ショウ」である。大勢の踊り子が、様々なスタイルでミュージカル仕立てのダンスショウを演じるのだ。テーマは「キューバの歴史」。女性ダンサーの肌の露出は多いけどね。げへへへー。
ステージを見ていると、「最初はインディヘナ(インディオ)だけが住んでいた島に、白人が現われて、その後から黒人がやって来て、これらの文化が玄妙に入り混じって今のキューバが出来ました」というストーリーが、ダンス仕立てで語られるのが分かった。
しかし、歌詞もセリフも全てスペイン語なので、途中で話が分からなくなるし周囲が暗いしでウトウトしてしまった。
滞在3日目で痛感したのは、この国に来るならスペイン語が出来なければダメである。俺は、「事前にスペイン語を勉強しておけば、旅行の楽しみが数十倍になったに違いないのに」と激しく後悔するのであった。
2時間で公演が終わったので、ホテルの前でタクシーを拾った。例の「シンコ・ペソ」作戦を使って5ペソで旧市街に帰り着く。
時計を見るともう11時半だから、さっさと寝ないとな。欠伸をこらえつつ、カードキーをホテルの部屋のドアに差し込んだけど反応しない。何度やってもダメであるから、カードの磁気が飛んだということらしい。
その原因には心当たりがある。カードキーと携帯電話を、同じポケットに入れておいたからだろう。日本でも、ケータイの普及はじめには、こういった事故が続発していた。ケータイの電波が、カードの磁気を散らしてしまうのだ。
慌ててフロントに行ったけど、受付のオバサンも、急を知って駆け付けた修理工も英語が通じない人だった。そのため、「磁気が飛んだ」という状況を上手に伝えることが出来ず、カードの修復完了まで余計な時間がかかってしまった。
ともあれ、最終的には無事に部屋に入って寝ることが出来た。ボディランゲージでも、案外なんとかなるものだ。
明日は、郊外に遠出してみるとしよう。
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