織田信長から学ぶマーケティング【第一話 長篠の戦い】 マーケティング・コンサルタント 小笠原昭治ONLINE
「マーケティング戦略」というように、マーケティングでは「戦略」「戦術」「戦法」といった表現が頻繁に使われます。「実戦」という表現も使われます。
「戦」という呼び方を嫌う向きもありますが、企業は営利追求団体ですから、利益を勝ち取らなければなりません。
利益が多ければ、殆どの問題は解決します。利益が無ければ死ぬしか無い。つまりは倒産や餓死です。
こうしてシビアに考えると、やはり、戦いに勝って戦利品を得る「戦い」といっていいでしょう。
利益を得るための行動は、飛び込み営業のような白兵戦ばかりではありません、策を練ることも重要な戦いです。
では、戦略とは何か?戦術とは?戦法とは?
ここからは、学校で学ぶ教科書通りなマーケティング論とは別に、小笠� �流マーケティング視点で見ていきましょう。
さて、日本史好きならずとも、織田信長や武田信玄の名前は知っていますね?
ラッセルは何を意味するこの織田信長という武将がまたマーケティングの申し子なのですよ。彼が辿った軌跡はマーケティングであったといっても過言では無い。その当時は、マーケティングなんて勿論ありませんでしたが。
まず第一にベンチマーキング。
信長といえば、世界で初めて戦場へ鉄砲を大量投入した武将としても知られています(=長篠の戦い)
新しもの好きな信長は、17歳の若さで鉄砲を習得していますし、鉄砲を使った戦い方を、義父の斉藤道三から学んでいました。
道三は、当時まだ珍しかった鉄砲を早々と軍備に採り入れていました。信長も、道三の愛娘である濃姫との婚姻を機に、鉄砲を量産するようになります。
目標値は、斉藤軍と同じ500丁(挺� ��。
長槍の長ささえも、斉藤軍をベンチマークして三間の柄にしたくらい。
でも、ここまでなら単なる物真似。
しかし信長は、鉄砲を「一斉射撃(三段射撃)」という戦術にまで落としこみました。ベンチマーク→エポックメイキングです。(これは、雑賀党との戦いを経て完成したように思います)
バスケットボールはどのくらい回避されましたか?そして、初期の信長の命運を分けた桶狭間の戦い。あの戦いで、信長に最も評価されたのは誰だったのでしょうか?
今川義元に一番槍を刺した服部子平太か?今川義元に指を食いちぎられつつも義元の首を斯き切って首級(くびじるじ)を挙げた毛利新介のどちらか?が第一の手柄と思われしところ…
信長が論功行賞第一としたのは、服部でも毛利でもなく、
「桶狭間にて今川軍が休息中」
との一報をもたらした、諜報部隊長の簗田政綱でした。これぞマーケティングリサーチ。
実戦の成果より、情報の価値を高く評価したわけです。
織田信長は、マーケティングにおけるリサーチの重要性を知り尽くしていたとしか思え� ��論功行賞です。
何度も何度も申し上げている通り、マーケティングの基本はリサーチ(調査)です。信長は、誰に教わるともなく、リサーチの重要性を知悉していたのでしょう。
33歳の頃には「天下布武」というマーケティング・ゴールを設定して印に刻し、日本国内は勿論のこと、海外へ向けても提示しています。天下に武を布く……つまり、日本国王になる宣言印です。
何年にtehの最初の電子メールが送信されましたか?この「天下布武」を中心に、マーケティングを展開していったわけです。
たとえば、日本国王になる「天下布武」を宣言していながらも、新潟の上杉謙信や、山梨の武田信玄には、子猫のように媚びました。絶対に勝てぬ相手には、恥も外聞もなく、懐柔作戦を採ったわけです。
あの信長が、媚びたんですよ?織田信長といえば、疾風怒濤の攻撃で急襲するように思われがちですが、激突戦ばかりが彼のマーケティングではなかった好例です。
そして42歳。
ついに、長篠の戦いで大勝利を収め、東日本では最大の脅威であった武田家に壊滅的なダメージを与えました。
鉄砲を使った組織戦としては世界初の大勝利といわれている点で正に世界の戦史に残るエポックメイキングでした。
マーケティングが新しい価値の創造であるならば、織田信長こそ日本初のマーケティング創造者であったといえるでしょう。
その長篠の戦い。ここに「戦術と戦法」を紐解く重大なヒントがあります。
次話から、長篠の戦いにスポットを当てて、「戦術と戦法」の大きな違いを見ていきましょう。
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